江戸時代から庶民の憩いの場となってきた公衆浴場に、富士山などの図柄でおなじみのペンキ絵(ペンキで描かれた背景画)が登場したのは大正時代。家へ帰るまでに湯冷めするのを防ぐため、熱い湯に少しでも長く入っていられるようにと涼しげな絵を描いたものと言われます。
そのためペンキ絵には青や緑系統の涼しげな色 が主に使われています。
東京で生まれたペンキ絵は関東を中心に全国へ 広がり、公衆浴場といえば富士山の背景画、と いうイメージが定着しました。しかし、昭和30年頃から内湯が増えて公衆浴場が減少していくと ともに人々に親しまれてきたペンキ絵も急速に 姿を消していき、残った公衆浴場でもほとんど がタイル絵に変わってしまいました。また、ペ ンキ絵は布の上にペンキで描いて湿気に強い特 別な方法で貼られますが、それのできる職人が いなくなったこともペンキ絵の衰退を決定的に しました。残念なことですが、今ではペンキ絵 は都内では数十軒の公衆浴場でしか見られなく なり、絵師も数名が残るのみとなっています。
佐怒賀(さぬが)次男さん
背景画の作品には、山川草木とか、山水画、山と水は切っても切れない関係にあります。
背景画は銭湯の湯舟の所にある壁画です。それは都会にはない自然の風景を銭湯にいれることによって殺風景な町並みから自然界を望む憩いの場ではないかと思います。
背景画を描くには、場所の選定、スピーディーな技術、そして鮮明に、明るく、雄大であること。背景画はおおむね布を使ってあり、横15m、縦4m位が標準で大きなキャンパスです。
背景画は年に一回の書替えの契約となっていました。毎年、各お風呂屋さんの背景画の絵を違ったものにしなければなりません。各地の名所、風光明媚な所を描き、人々がこの背景画を眺め、いくらかでも清涼剤になればと永年描きつづけてまいりました。
浴場背景画を一般の人々は「何んだ風呂屋のペンキ絵」かと簡単に思っていますが、ちょっとやそっとのことでは習得できるものではありません。描く場所の選定、色彩、塗料の材料、調合、描くテクニック等、果てしない道の連続であると言っても過言ではないでしょう。
また、浴場背景画は、油絵、水彩画と違い、ペンキ絵であり、描くための道具類、その他の手法も独特のものであり、一朝一夕でできるものではないのです。浴場背景絵師は努力と永年の研鑽によって背景画を自己独特のものとして描きつづけ庶民の文化にささやかなりとも貢献したものと自負しています。
丸山清人さん
18歳で銭湯の広告を扱う背景広告社に入社し、26歳で一本立ち、45歳で独立し「マルヤマ工芸」を設立。68歳となった今も、銭湯のほか、一般家庭の浴室、健康ランドなどで意欲的に背景画を描いています。
「もともと絵が好きだったんだよね。一度もやめようと思ったことがないんだよ」と語る丸山氏は銭湯の背景画絵師。背景画とは、銭湯の壁に大きな綿の布をピンと張り、油性のペンキとハケで描く風景画のことです。「背景画は、どの銭湯もだいたい一年に一回描くものだった。あれは前年描いた絵の上に描いていくんだよ。だから背景画ってのは、なかなか保存できないものなんだよね」。
大正元年から誕生し人々に親しまれた背景画も、近年、銭湯の廃業が増えるに伴い貴重なものに。そこで背景画の文化を残したいと、平成5年に公衆浴場背景画保存会が発足。丸山氏に、小型のパネルに背景画を描いてもらうことになったのです。「銭湯で大きな絵を描くのは、やっぱり気持ちがいい。描き上がった時の一服がね、なんともいえないんだよ…」と目を細める丸山氏が、一枚一枚描くこのパネル。そこには、一人の絵師の手から紡ぎ出される、人と銭湯の歴史があるのです。
HANDS STYLE VOL.01より引用
学芸員 丸 浜 晃 彦
内風呂と私の銭湯
銭湯に通って二十二年になる。その前は内風呂だったが、こうも長いと、銭湯の有り難さが身についてしまっている。手足が伸ばせるせいか、銭湯につかっている時が、或は一番楽にしているのかもしれない。
小学校四年まで、私の家ではまだ五衛門風呂で、その後も一時、あの熱い鉄の風呂だった。底板を踏み沈めて、回りに触れぬよう入っていた記憶がある。しばらくして木の風呂に代わっても、燃料は、なたで割った薪で、それは子供の仕事だったように思う。それが何時のまにかガス風呂になった。狭い我が家では、内風呂も広いはずはなく、手足を縮めて入ることに慣れっこになっていたようだ。
東京生活十七年になる私だが、ほっとして考え事もする所、それが私の銭湯である。
数年前、公衆浴場背景画保存会の方々から、背景画の縮少復元画を寄贈したいと申し入れがあり、その頃から、町の銭湯の背景画にも気を付けるようになったが、そのほとんどがペンキ画ではなくタイル製のプリントに変わってしまっていた。
この背景画に各地の風景を描くようになったのは、大正初年頃からだそうだが、温泉旅行、観光旅行への庶民の夢の反映でもあろう。そう言えば、明治時代中頃、現台東区坂本付近に、塩原や伊香保の温泉と同じ湯を備えた料亭があった。一般の銭湯にも温泉式風呂が広まったと言うが、その傾向は、現在にも各種の湯の花や、薬草風呂に引きつがれている。
背景画は、銭湯あってのことで、その運命を一つにしているし、例え営業が続いても、タイル画とともに銭湯の構造を改造されるのでは、味わいが変るのではないか、そして一人者や、銭湯そのものが好きな人達には、これがなくなると本当に困る。幸い私の住んでいる柴又は、まだ町内に数軒のこっていて、東京でもその密度が高い地域だと思う。
減少するばかりとなった東京の銭湯よ、どうぞ、廃業は打ち止めにしてほしい。そして客の我々も、ゆっくりしながら、背景画を見る心の余裕を持ち続けたいものだ。
世田谷美術館
プリミティブ・アートとプリミティブィズム−その歴史的展開展
展示評
「たかがペンキ絵」という前に、まぁまぁもう一度ゆっくりご覧下さい。ひと昔前まで銭湯には不可欠のものとして庶民に親しまれたペンキ絵も、このところ銭湯や職人の数が減って元気がありません。
このペンキ絵、藤森照信氏によれば、かのモース・コレクションの中に幕末から明治初期に見られた「おこし絵」があって、そのうちの銭湯を描いたものにはすでに原型ともいうべき富士山の絵が見えるということです。
プロの絵描きの風景画に比べたら技巧の拙さは隠せませんが、しかしこれはこれで立派な様式美の世界でもあります。ちなみにこの絵を描いた職人さんは70代の超ベテラン、常に170ほどのパターンが頭の中に入っているといいます。
劇的な感情を誘発する、というわけではありませんが、しみじみとした素朴な味わいにはやはり捨てがたいものがあります。ルソーの絵のように、ある日突然このペンキ絵が評価されだしたら……ひとときそんな空想に耽ってみるのも一興です。